HITORIGOTO

こんにちわ! 関 なみです!





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過去作

 最近、古い作を書き直しています。
あんまり面白いとはいえない作だったのですが、かの「おっさん企画」の1作です。
宜しければ、お目遠しを。

             ****


 『ため息の時間』

 

 三十歳と四十歳の差って何だろう……と、智明(ともあき)は考えながら、校庭を見ていた。
 校庭では、野球部が守備練習をしている。
 夏休みの午後、焼けつくような夏の日差しの中で、同僚の若い倉田先生が、野球部員に檄を飛ばしながら、守備ノックをしている。汗を流しながら、褐色に日焼けをして、数限りなく玉をトスしては打ち返す。智明はその姿に見惚れて、黙って目で追う。そして、今の自分じゃあ、10本も打ったら息が切れるなあ……と、苦笑いをする。
 三十歳になったばかりの倉田先生は、今年になってこの中学に赴任してきた。体育教師としては華奢だったが、日に焼けた顔と、すらりとした背丈、体脂肪なんかないだろうと思うほど締まった体。正直、おっさんになった自分からみたら、羨ましいほどにいい男に見える。
 俺だって、二十代の時は、女生徒から弁当だって差し入れて貰ってたんだから……。空しい過去の栄光を強がって思い起こし、そして落ち込む。今では、ぷっくり丸くなった中年の体の、一番気になっている腹の部分に手を置いてみる。パンと張った、ズボンのベルトにかぶさった脂肪が重い。ここが一番の問題だとため息を吐く。
 
「そろそろ2時か……。高志の塾の面談の時間だな」
 腕の時計を見ながら智明は、ポツリと呟く。
 今日は、一人息子の高志がずっと通っている進学塾の個人面談の日だと、朝出かけるときに、妻の亮子に愚痴るように言われた。
「貴方は良いわよね。子供のことは私任せで、知らん振りができて。高志が高揚中学落ちたらどうするつもりなの!」
 不機嫌な亮子は目も合わせようとしないで、学校へ出勤しようとする智明に言った。
『公立へ入れればいいじゃないか』
 と、心の中で呟く。勿論、声に出して言うつもりはなかったが……。
 妻の亮子は、今は息子の事で頭がいっぱいになっている。どうしても、名門の私立中学へ入れたいと思っているようだ。
「ほんとに、小学校から受験して置けば、こんな狭い門に敢えて挑戦させる事もなかったのに」
 いつものように、玄関へ向かう智明の背中へ投げつけられる言葉。亮子は、小学校からの一貫教育の私立へ入学させたいと希望していたが、実は智明が反対をして、公立の小学校へ高志を通わせた事をずっと根に持っているようだ。おまけに来年受験を控えて、そのストレスがもろに智明にぶつけられる。
『まあ、仕方ないさ。高志の事を任せているのは事実だし』
 玄関を閉めてから、智明は大きくため息を吐く。朝の始まりの時間まで、妻に不快にさせられて、本当に家族とは煩わしいものだとこの頃思える。
 結婚当初の甘い生活なんて、正月に見る初夢と同じで、良い事がなければ自然と忘れてしまうものだ。
 亮子と仲が悪いなどということはなかったが、時々他人のようにさめていると感じる事がある。例えばSEXに関して言えば、もともと彼女は淡白で、高志が生まれてから役目は終わったという風に、智明を受け入れることを拒んだ。それからずっと関係はない。愛だの恋だのと、色っぽい話を交わすことさえない。だからと言って、亮子を嫌っているわけではない。母としても、妻としても、家の中での采配はきちんと振るってくれる。彼にとって、家庭を守ってくれる亮子は、勿論なくてはならない存在だ。SEXだけが夫婦にとって全てではない。しかし、全てに平坦で平凡な人生に、多少味気ない気持ちを持っているのも事実だった。

 妻の不機嫌な顔を思い出しため息を吐きながら、陽炎が立つような夏休みの校庭を眺めていると、ガラリと教室の扉が開けられた。
「先生〜!」
 振り向くと、長い髪を二つに括った女生徒が、跳ねるように教室に入ってきた。智明は、少し困った顔で女生徒を見る。一瞬、何となくそうしないといけないような、妙な警戒心が働く。
「川口か。進学補講はもう終わったのか?」
 女生徒は、窓べの智明に並んで、ふふっとはにかんで笑う。彼女は川口詩織。一年二年と受け持ったクラスの生徒だ。
 詩織は、夏休みに入って毎日、この教室で自分の補講の時間を待つ彼に会いにやってくる。進学補講はまだ終わってない筈だと、智明は時計に目を落としながら、詩織がやってくることを心待ちにしていた自分に戸惑う。
「補講、サボっちゃった!」
 ペロッと舌を出して、茶目っ気いっぱいに智明を見る。黒目勝ちな大きな目が、自分の可愛さを引き立ててると知っているように、瞬きをして上目遣いに見つめてくる。そんな川口詩織が、智明は「可愛い」と思ってしまう。中三ともなれば、幼いながらも既に女の子としての領域から、飛び出してしまうことがある。詩織も、中年の智明でさえ戸惑うくらいに大人の顔を見せる。それに反応する自分がおかしいと思うが……。
「仕方のないヤツだなあ。で、今日はどんな相談だ?」
 智明は、一教師として、ゆとりの笑顔で詩織に向き合った。
「葉山先生って、小説家になりたかったの? 学生の頃」
 と、突然詩織が訊いてきた。
「え? 何で、それを……」
「廃部になって辞めた文芸部の子に訊いたの。先生は文学部で勉強してただけじゃなくって、小説家になりたかったから、すごく文学に対して熱心だって。ただ、あんまり熱心だから、自分の好みを押し付けてきて、ウザイって」
 智明はきょとんとして、窓に頬杖をついて話し出した詩織を見た。
「ウザイ?」
「そっ! ホントは気楽にラノベやファンタジー読んで楽しみたかったのに、ヘッセやスタインベックや、えっとその他諸々の古典文学に親しめなんて言うから、みんな面白くなかったみたいよ。授業の延長みたいで嫌だったから、その子もやめたって言ってたよ」
「そうか……。確かに、古典は勧めたからなあ」
「四十過ぎのおっさんが読むものと、中学生が好むものをごっちゃにしちゃあ駄目だよ。そりゃあ、文芸部潰れるわ」
 詩織は、ちらっと智明に視線を送ると、知ったかぶりに顎をしゃくって見せた。智明はその様子にふっと笑って、
「本当に女生徒は分からんなあ。いやあ、女の人という生き物が今でも理解できん」
 と、窓の外に向かって呟いた。
「男は女を理解できないから、興味を持つのよ。何でも手に取るように分かれば、探究心なんか無くなって好きになる必要もないもの」
 大真面目に大人顔負けの台詞を吐く詩織に、呆れて顔を覗き込んだ。彼女はニコリともせずに、校庭の野球部の練習を見ている。こじんまりした色気のない横顔が妙に大人びて見えた。
「まいったね」
 智明は、一人息子とそうはかわらない中学生の詩織に、女の子はまるで小悪魔だなと苦笑した。
「だけど、どうして小説やめたの? 国語の先生しながらでも、書けばよかったのに」
「いや、あくまで趣味で書いてただけだから。プロになるには、相当な才能を持ち合わせていないとな。先生にはそんな才能も技量も無かったし」
 詩織にそう答えて、智明は少し落胆している自分に気づく。学生の頃は本気で自分に才能があると思っていた。確かに何度か雑誌の新人賞の最終選考に残った事もある。ただ、入賞は逃しデビューするまでには至らなかった。
 あの頃は夢中だった―――――と、ふと若かりし自分の姿が脳裏に浮かぶ。何かを得る事には貪欲だった。小説執筆にも遊ぶ事にも、そして女にも……。躊躇する事や、後悔する事など知らなかったような気がする。
 しかし、今の自分には、全てにそつなく石橋を叩いてわたるような、慎重で賢明な教師の顔がある。三十を過ぎた頃から、大人としての責任の重さはますます加算されて、それを全うして信頼を得る事に終始するようになった。
 勿論、今の自分には小説など書けるはずがない。体と一緒に硬くなってしまった心では、細やかな心情など書き込めるはずはない。恋でもすれば、違うだろうが……。
「先生? 何か可笑しい?」
 と、突如言われて、向けた視線の先に、また可愛く笑っている詩織の顔があった。
「いやね、小説家の中には恋愛モノも書いてる、同じ年代の作家もいるわけで、そんな人たちはリアルタイムで恋愛もしてるのかなあって思ってね」
「え? 先生は恋してないの?」
「おいおい、四十過ぎたおっさんにそれを訊くか?」
 テレながら、無邪気な詩織に笑い返したが、何となく「恋」という言葉に甘い感傷が生まれる。それが、いかに人の生き方に色を付けるものか本能で分かっていると、妙に昂ぶった気分になる。
「先生……。相手いないなら、私と恋してみる?」
 と、詩織は智明の腕に、自分の手を絡めて体を寄せてきた。流石にこれには智明もどきりとした。
「こら、大人をからかってないで、補講に出ないなら、もう帰りなさい。それともここで補講の続きをしてやろうか?」
「やだ、勉強なんかしたくな〜い! 帰ります〜」
 腕を解くと、詩織はくるりと体を回して、学生鞄を手に持った。
「先生、明日もここにいる?」
「ああ、補講のある日は来てるが……」
「じゃあ、また明日ね!」
 詩織は、智明にぴんと張った掌を小さく振って、また跳ねるように教室を出て行った。
 ふうっとため息を吐いた。
 開けっ放しの扉を見ながら、何故か戸惑っている自分がいる。智明は、自分の吐息が熱いのを感じた。だけど、それは詩織に感心があるというのではなく、女と並んで何の変哲もない風景を、二人だけで肩を並べて見るという行為に心が騒いだのだろうと思った。
 恋する気持ちに壁など作る必要もない頃の、甘酸っぱい思い出が蘇ってくる。
 詩織の触れた腕を、苦笑いしながら、片方の手で撫で付けた。
 

 夕刻、帰宅した智明を、妻が口を尖らせて待っていた。
「だからね、可能性がないみたいな言い方をするのは失礼でしょう?」
 亮子は、着替えを始めたばかりの彼に付きまとうように、息子の面談の結果を聞かせる。自分の思う結果を得られなかった事が、相当腹立たしかったのか、にこりともしないで話し続ける。
「成績を上げられないのは、指導する自分達の力が足りないからじゃない。お金だけとって、やっぱり子供さんは頭が悪かったですって言われて、はい、そうですかって納得出来ないでしょう」
 智明は、ため息を漏らすと、げんなりして言葉を返した。
「塾側にも問題はあるのだろうが、つまりは高志の頑張り次第だということじゃないか。あっちだって、どっちに転ぶか知れないレベルの子に、100パーセント大丈夫ですとは言えんだろう。実際、高揚中学は全国から優秀な子供が集って来るんだし」
 智明から受け取った上着をハンガーにかける手を止めて、亮子は彼を振り向いた。
 への字に曲げた口元が、反発している事を暗に知らしめている。
「貴方は、良いわよね。そう言って第三者でいられるから」
 会話は大体、この亮子の言葉で終わる。
 二人しかいない空間に、ひんやりした空気が漂う。しかし、智明はそれをどうしたいとも思わない。子供のこと以外、考えを述べ合う事もなくなった二人には、こんな事はいつもの事だ。自分さえ黙っていれば、喧嘩になることもない。

 そんな背中合わせの二人を嘲るように、亮子の手に持った上着から、智明のケータイの着歌が流れてきた。
「あ、俺のだ」
 慌てて手を伸ばした彼に、亮子は黙って取り出したケータイを渡した。
「もしもし?」
 亮子に背を向けて、ケータイに話しかける。でも、すぐに返事が聞こえてこない。
「もしもし? どちらさん?」
 知らない番号に戸惑いながら、もう一度呼びかけた。
――――「先生……」
「ん? 川口なのか?」
 智明は驚いた。女生徒から、個人的なケータイに掛けられるのは初めてのことだ。それに耳に届く声は泣いているようだった。
「どうした? 何かあったのか?」
――――「ごめんなさい。何となく声が聞きたくなって、文芸部の子に番号聞いた……」
「そんなことはどうでもいいが、どうしたんだ? 大丈夫か?」
 智明は教師の顔に戻り、出来るだけ優しい言い方で話しかけた。泣くなんてただ事ではない。いつも明るい彼女の顔が浮かび、余計に心配になる。詩織は、鼻を啜りながら、甘えるように小さな声で答えた。
――――「先生はいつも優しいね。先生の声聞いてると、元気になれそう……」
「友達と喧嘩でもしたのか? 先生に出来る事はなんでもしてやるよ。泣いてないで言ってみなさい」
 ふうっと、詩織のため息がケータイの向こうで吐かれた。言葉を待っている智明は、自分の息も小さくして、彼女の立てる音に耳を澄ませる。
――――「大丈夫。ごめん、先生。心配掛けて……。ほんとに声が聞きたかっただけだから……。もう、元気になったよ。明日も補講に学校へ行く?」
「ああ。いつもの時間に補講があるから、教室にいるよ」
――――「そっか、じゃあ、明日も会いに行く。その時、話す」
「わかった。元気を出せよ。待ってるから……」
 ケータイを耳から外し、手に握り締めた。「待ってるから」なんて言った自分に、少し戸惑っている。
「なあに? 生徒から電話なの? 珍しいわね」
 亮子の声に、慌ててケータイを閉じた。普段の顔を作って、振り向く。
「ああ。何か悩み事があるみたいだったが……。さあ、風呂へ入るかな」
 そう言って、わざと背伸びをした智明に、
「生徒には、優しい言葉を掛けるのね」
 と、亮子は言って、部屋を出て行った。


  *****


 智明は、いつものように教室の窓に肘をつき、汗を飛び散らせて走り回る野球部の練習を見ていた。
 しかし、気持ちは常に廊下側の扉に向かう。
 昨日、泣きながらケータイをして来た川口詩織のことだけが気にかかる。今日は沈んだ顔で来るかも知れない。友達の事か、勉強の事か、もしかしたら片思いの男の子に失恋したくらいの理由かも……。とにかく教師として、最良の答えを言ってやらねばならない。
 智明は、時計を気にしている。今の時間なら、もう詩織が入ってきても良い頃だ。しかし、遠くで聞こえる部活の掛け声以外、夏休みの教室に流れる声はない。
 あと少しで、自分の補講の時間になる。気持ちはイラついてくる。今日に限って、詩織は真面目に補講に出ているのだろうか。それとも、自分に会いたくないのか……そんなことまで考えてしまう。
 智明は、ふっと可笑しくなった。
「これじゃあ、恋人と待ち合わせをしている少年だ」
 何十人もいる関わりのある生徒を差し置いて、たった一人の女生徒をこれ程気に掛ける。教師として、危険信号なのかも知れない。
 智明は、変わらぬ学校の風景を見ながら、人生半ばの自分がみても、ここには青春があるなと思う。智明も、詩織と同じ様に悩みもがき、そして笑った時代がある。今、枯れてしまった自分の感情が、詩織に引き戻されるように、あふれ出してしまいたくなってきたのか。
 いくつになっても、心のときめく様な瞬間は、本能が欲するものだ。ただそれを、理性や諦めや、もしくは立場が封をする。
 まだ子供でしかない詩織に、心を占められる事はないが、この青春が溢れる場所にいると、自分も何十年も前の姿に戻る気がする。おかしなものだと、智明は思った。

 
 結局、詩織は会いに来なかった。
 生徒の気まぐれなど、智明はよく分かっている。それを取り立てて腹を立てるつもりはなかったが、何となく物足りない、淋しさが心の隅に巣食う。
 テーブルに肘をつき、出されたビールを一人飲んでいると、ロウボードの上に放り出したケータイが呼び出し音を響かせた。
 椅子からゆっくりと立って、ケータイを掴んだ。
 キッチンにいた亮子が、ひょこっと顔を出して、智明を見た。「えへんっ」と妙な咳払いをして、ケータイを開く。
――――「先生……」
 か細い詩織の声に、瞬間どきっと言葉が止まった。
「あ……。どうした。今日は来なかったな。もう、解決したんだな? 昨日のことは」
 来なかった事を攻めている。智明は、慌てて言葉を繋いだ。
「いや、先生が力になれるとは限らないから、いいんだ。川口が元気になったんなら」
――――「ごめん、先生。ちょっと補講にいけなくなっちゃって……。昨日のことは心配しないで。もう決心したから」
「決心? そうか。じゃあ、先生は何も聞かないが……。でもな、内に溜め込んだら駄目だぞ。友達とか、親とか、親身になってくれる人に何でも話さんと。受験の時はストレスが溜まり易いからな」
――――「親かあ……。うん、そうだね……。何かあったら話すことにする。やっぱり、パパもママも私を一番心配してくれているもんね」
「ああ、そうだよ。子供はいくつになっても可愛いものだから」
――――「ねえねえ、先生! それより、高田君と山辺君、地区優勝でしょ! テニス馬鹿だって思ってたけど、全国出場はすごいよねえ!」
 詩織は急にテンションをあげて、明るい声で言った。
「あ、ああ。よくやったなあ。最後の大会だから気合が入ったんだろう」

 詩織は、昨日の涙の電話が嘘のように、陽気に俗に言う世間の話を笑って聞かせた。学校の噂話や、友人の事、教師への愚痴……他愛もない会話が、明るく楽しそうに話される。
 それは、妙な気分だった。教師と教え子という関係が、薄らいでゆくような……、ましてや、二十五以上離れた年の差がスルーされたような感覚。
「へえ、そうなんだ。それはすごいなあ」
 などと、詩織の話しに相槌を打つ。智明は、それを面倒だとも感じず、楽しいとさえ思った。

 それから、毎日夜の八時ごろ、詩織はケータイを掛けてきた。智明は、その電話を待っている自分に気づいている。
 ケータイというのは、相手の顔が見える訳ではないから、もしかしたら、中三の詩織と話しているという感覚ではなくなったのかも知れない。自分が教師だという自覚も、話している時は忘れていることの方が多い。
 実のある話を聞かされるわけではないが、若々しい言葉使いや、屈託ない笑い声が、とても魅力あるものに感じた。そして、ケータイを切ったあと、何ともいえない高揚した気持ちになる。大人気ないと思いながらも、一日の気分まで明るくしてくれた。


「お父さん、この頃、楽しそうだね」
 食事時に、息子の高志にズバリと指摘された。
「ああ、夏休みだからなあ。のんびりできるしな」
 そう言い返した智明を、ちらっと亮子が見た。しかし、彼女は何も言わないで、湯のみに口をつけ、こくりと咽を鳴らした。

 
  *****


 夏休みの補講の最終日。
 智明は最後の講義を終え、生徒の帰ったあと、一人で片づけをしていた。
「葉山先生。失礼します。ちょっとお話があるんですが……」
 三年の担任の玉田真由先生が、入口から顔を覗かせた。詩織のクラスを受け持っている若い女教師で、学校でも人気がある。
「なんでしょうか? 授業の事ですか?」
 玉田先生は、黒板を消して、汚れた手をパンパンとはたく智明の前にやってきた。
「実は、今朝、私のクラスの川口詩織が母親と挨拶に来ました」
「えっ!?」
 自分でもびっくりするくらい大きな声を上げた。目の前の玉田先生が唖然としている。智明は、照れ臭そうに苦笑いしながらも、詩織のことを尋ねた。
「川口が来たって、何かあったんですか?」
「やはり知らなかったのですね。川口さんは今日、転校の手続きに来たんですよ。ご両親が離婚される事になって、彼女はお母さんの実家で暮らすことになったんです。急な話で、クラスの友達にも別れも言えず、本当に可哀想でした」
「転校……?」
 玉田先生の話しに、頭の中が混乱した。詩織は毎晩ケータイを掛けてきたのに、そんなことは一言も言わなかった。いや、泣くほどの悩みというのは転校のことだったのかと思う。しかし、何故自分には教えなかったのかと思うと、智明は呆然として、言葉を失くした。
「先生、大丈夫ですか? 驚かれたでしょう」
「はあ、全く知らなかったのでびっくりしました。補講の時、会っていたのに、そんなこと一言も言ってなかった……」
「川口さんもそのことを気にしていました。他の事は相談していたのに、転校のことは言えなかったって。先生は、何でも彼女のお父さんに感じが似ていて、つい甘えてしまったらしいです」
「お父さん?……」
「ええ、離婚が決って、すぐに家を出て行ったお父さんの事がとても好きだったらしく、まるで捨てられたような気持ちになったって言ってました。淋しかったんでしょうね。でも葉山先生といるとお父さんといるみたいで、悲しいことはいえなかったって。優しくしてくれて有難うって伝えて欲しいって言われましたので」
「お父さん……」

 玉田先生が出て行った教室で、ひとり、智明は自分を笑い飛ばした。父親の代りに慕われていたなんて、全く罪の欠片もない関係じゃないか。何を期待していたのだろう。四十過ぎたおっさんが、勘違いにも程がある!
「ぶ、はははははは――――っ。あほだろ、俺は!」


  *****


 その夜、もうケータイは鳴らなかった。まるで失恋でもしたように、智明はため息ばかり吐いている。
 彼は、テレビの音まで耳障りで、早々に寝室へ入った。そして、落ち込む自分に呆れながら、ベッドの上からただ天井を見つめていた。
「貴方……」
 しばらくして、片づけが済んだのか、亮子も着替えて寝室へ入ってきた。智明は話をするのも億劫で、返事もせずに妻に背を向けた。
 自分のベッドに腰を下ろし、智明を見つめながら、亮子は上ずった声で言った。
「貴方……。そんなに私が嫌? 嫌っているの?」
 また、何の愚痴だと、
「そんなことないよ。今日は疲れているから……」
 それだけ言って、後は無視を決め込み、話を遮ろうとした。
「貴方、あのケータイの生徒の事、好きだったの?」
 亮子は、一番触れたくない詩織の話題を、ストレートにぶつけてきた。
「馬鹿なことを言うな。中学生だぞ」
「年なんか関係ないわ。だから、私に冷たいんでしょう? 好きな人がいるから。だって貴方、とても楽しそうにしてたもの」
 智明は、驚いて亮子を振り返った。彼女は、気丈な妻の筈なのに……何故か、少女のように嗚咽を漏らして泣きはじめた。
「亮子……」
「もう、ずっと前から私が嫌いだったんでしょう? 話も聞いてくれないし、笑ってもくれない。それに……抱いてもくれない」
「亮子、だってそれは……」
「私がどんなに良い奥さんでいようとしても、貴方はちっとも振り向いてくれない。どんなに頑張っても、知らん振り」
「そんなことないよ。感謝しているよ」
 智明は起き上がって、思わず亮子を抱きしめた。久しぶりに抱く妻は、若い時よりほっそりとしている。
「亮子こそ、こんな太ったおっさんの俺が嫌いになったと思っていた」
「私には貴方しかいないのよ。嫌いなわけないじゃない」
「亮子」
 名前を呼びながら、智明は妻をベッドに組み伏せていた。 

 
  *****


 朝、カーテンの隙間から、長い光がベッドまで届いている。
 既に抱き合って眠った亮子の姿はない。朝食の準備をしているのだろう。智明は、昨夜の乱れた亮子を思い出し、少し残念な気分だった。もう一度、妻の甘えるような声が聞きたかったなと微笑む。

 安心して暮らせる空間は、得てして気遣う事を忘れがちになる。お互いに相手をいたわる言葉を省略してしまいがちだ。
 智明は、詩織の一件から思わず亮子の本音を聞けて、幸運だったと思う。さもなくば、詩織の両親のように、「離婚」などと言う事にもなりかねない。
 確かに、教え子をどうかしようなどとは思いもしなかったが、詩織に感心を持ったことは事実だ。
 人はいくつになっても、ときめく気持ちを失くしたくないものだと思う。

 朝のキッチンに朝食を用意する亮子の後姿があった。コーヒーを入れる良い香が流れてくる。
 昨日までと違う目で彼女を見つめ、智明はそっと傍へ近づいた。後ろから抱きしめてみようか。振り向かせてキスしてみようか。「好きだよ」なんて言ってみるか。そう、一人思って照れている。
「あら、おはよう」
 先に気づいた亮子が振り向いた。そして、また背を向けて、コーヒーを注ぎながら言った。
「貴方、悪いけど、今日は高志を塾の集中合宿に送っていくから、お昼は外で食べてね。その後、2〜3日実家へ泊まろうと思うの。いいでしょ? 高志がいないなんて、滅多にないことだから」
「え……」
「いけない?」
「いいや、好きにすればいいけど……」
 妻の背中を見ながら、ダイニングチェアに肩を落として掛けた。
 まあ、日常なんてこんなものさ。何の変化もないことが幸福というもんだ――――と、智明は苦笑いした。

 黙って差し出されたコーヒーカップから、彼の好きな豆の香がゆっくりと立つ。智明も、黙ってカップを持ち上げ、香を楽しみながら口をつける。
 コーヒーが口に広がり咽を通ってしまうと、智明は大きくため息を吐いた。
「小説でも書くか」
 ポツリと呟いた彼の頭の中で、川口詩織がふふっと笑った。

           ( 了 )

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